2.紅葉八幡宮(もみじはちまんぐう)

福岡県福岡市早良区1丁目26-55

 家の近くの神社です。引っ越して直ぐにお参りに行きました。御朱印をいただいたのは5月27日ですが、写真は先月の4月11日、桜が咲いているときのものです。
 
 2013年10月27日(土)、一年半ぶり、御朱印帳購入のために参拝、ちょうど七五三の時期でたくさんの家族連れが参拝に訪れていました。写真も追加しています。

紅葉八幡宮 公式ホームページ

創 建
 平安時代後期の治暦じりゃく年間(1065~1068)

由 緒
 社伝によると、平安時代後期の治暦年間(1065~1068)陸奥国柴田郡より筑前国に来たる柴田氏が、八幡神像に産土神のご分霊を勧請し奉斎したことが創祀とされています。
その子孫である柴田蔵人佐繁信は筑前国橋本村(現西区橋本)に一族を連れ来住し、文明十四年七月(室町時代1482)八幡神像をお祀りするため社殿を創建しました。
 江戸時代初期、神社北側の藩主別荘茶屋へお越しになっていた二代目藩主黒田忠之侯は、美しい村娘と出会います。村娘は後に継室となり、三代目藩主となる光之侯をお産みになりました。光之侯はご幼少の頃、生母の里 橋本村で養育されたこともあり、当神社を産土神様として篤く崇敬されました。以後黒田家、黒田藩守護神としてご参拝されることが慣例となります。寛文六年(1666)三代目藩主光之侯は祈願成就の御礼に当宮を百道松原、別名紅葉松原(現西新パレス一帯)に遷座し境内3万2千坪、社領百石を寄進されました。
 福岡藩、黒田家守護神として歴代藩主の崇敬も篤く、「黒田家譜」「筑前國続風土記]には、藩に一旦事あれば、まず紅葉八幡宮に御祈願参拝されることが慣例となっていたことや、藩主より奉納された品々のことが記されています。 藩主によって建てられた広壮なる社殿、能舞台、随神門、鐘閣を有した当神社は、東の筥崎、南の太宰府、西の紅葉と並び賞され、藩主の厄年祈祷もこの三社で執り行われておりました。大祭の日も藩主によって定められ、福岡城は登城御免(藩の休日)とし、藩主は婦人、家臣団共々御参拝され玉串を捧げられました。大祭の神賑神事として猿楽、流鏑馬、相撲等の奉納があり、藩主はその際に特設の桟敷からその様子をご観覧になられ、この時だけは庶民も特別に一緒に観ることが許されたそうです。
 藩主は荘厳な社殿をご建立時、第107代後陽成天皇の皇子である梶井宮慈胤法親王(かじいのみやじいんほっしんのう)ご真筆の金色に輝く神額を奉納され、大鳥居の前に3戸の家士を置かれ交代で警護させました。そこから門前町を中心として次第に人家が増え、付近地域(現在の西新、高取、百道、藤崎など)が発展していきます。
 明治の世になり田地、山林、社領すべてを返上。明治四十三年に北筑軌道が境内を横切り、境内ではそれまでの静粛さが失われましたので大正二年に町が一望できる現在の地に遷座されました。
 早良郡一の大社であった当神社は、郡民から篤い崇敬を受けており、大正十二年に早良郡全首長の推薦を受けて社格が県社に昇格。現在は福岡藩の西、早良の総守護として篤く崇敬されています。

主祭神
 神功皇后(息長帯比売命 オキナガタラシヒメノミコト)
 應神天皇(誉田別命 ホンダワケノミコト 八幡大神)
 菟道稚郎子命(ウヂノワキノイラツコノミコト)

副祭神
 玉依姫たまよりひめ(縁結びの神)
 大己貴命おおなむちのみこと(良縁・子授けの神)
 事代主命ことしろぬしのみこと(えびす様)
 菅原神すがわらのかみ(勉学の神)
 金山姫命かなやまひめのみこと(金運の神)
 稲倉魂命うかのみたまのみこと(お稲荷様)

御神徳
 安産、子守(まも)り、厄除け・災難除け、縁結び、開運出世
子育て、子授け、夫婦和合、子孫繁栄、方除け、疫病除け、水難除け、武運長久、武芸上達、勝運、学業成就、合格、病気平癒、無病息災、家内安全、交通安全、海上安全、鎮火・防火、事業発展、福徳円満、商売繁盛、五穀豊穣、金運、豊漁、食物守護、鉱業守護、金属加工、粘土・焼き物、国土安泰、国家安寧

2012.5.27
2013.10.27
参道入大鳥居大鳥居
参道途中の鳥居
入り口の入り口の神門
拝殿前の狛犬さん 左
拝殿前の狛犬さん 右
拝 殿
紅葉八幡宮 由緒
境内社 宇賀稲荷神社
宇賀稲荷神社 由緒