275.佐太神社(さだじんじゃ)

出雲方面神社巡り、2社めの参拝は佐太神社です。小さな山の懐に鎮座しており、正面から見ると、本殿が三つあるように見え、それがまた何ともいえない威厳さをかもし出しています。参拝したときは、遷宮の準備のためか、敷地の左に御仮殿が建てられており、本殿への参拝は出来ませんでした。御朱印は、境内右側にある社務所でいただきました。
創 建(Wikipediaより)
秋鹿郡佐田大社之記に、垂仁54年(西暦134年)の創建、養老元年(西暦717年)に再建されたとある。
由 緒(ホームページより)
当社は出雲國風土記に「カンナビヤマの麓に座す」佐太大神社(さだおおかみのやしろ)或いは佐太御子社(さだみこのやしろ)と見え、延喜式(えんぎしき)には佐陁大社(九条家本)、また出雲國二宮と仰がれ、出雲國三大社の一つとして杵築(きずき=出雲大社)、熊野、鎌倉時代においても杵築、日御崎とともに「佐陀大社」と称えられた御社です。
中世には伊弉冉尊(いざなみのみこと)の陵墓である比婆山(ひばやま)の神陵を遷し祀った社と伝え旧暦十月は母神である伊弉冉尊を偲んで八百万の神々が当社にお集まりになり、この祭りに関わる様々な神事が執り行われることから当社を「神在の社」(かみありのやしろ)とも云い広く信仰を集めています。盛時には神領7千貫・神職224人を有し、年間七十余度祭禮が行われていたと云いますが、太閤検地で領地を減じられ神職75人となったと云われています。
江戸時代を通じて出雲國10郡のうち佐陀触下(さだふれした)と呼ぶ秋鹿(あいか)・島根(しまね)・楯縫(たてぬい)・意宇(おう)西半の3郡半の神社を支配下に置き、歴代藩主の信仰も厚く、出雲國内でも重要な地位を占めてきました。
た、旧暦8月24日・25日の御座替祭(ござがえさい)にはこの佐陀触下の神職・巫女が参集奉仕する慣わしで、この祭で舞われる神事舞が出雲國内をはじめ他の里神楽に大きな影響を与えたとされ「出雲神楽の源流」とも云われています。
明治3年、神社制度の改革が行われこの触下制度は廃止となります。51社あった末社もそれぞれが村々の氏神として独立し20ばかりとなり、神領、神職とも大幅に減じ著しく衰退しました。しかし、佐陀宮内の氏子はじめ神領6ヶ村の旧氏子、その他多くの崇敬者による復興運動により、昭和3年国幣小社に列せられました。
戦後は佐陀宮内地区の氏神社となっていますがその由緒・歴史から近郷諸所の惣氏神としてはもとより全国各地から広く信仰を集めています。
様々な歴史的困難にもかかわらず、本殿三社をはじめ、国・県の指定文化財も多数有し、古伝の祭祀を守り受け伝えている点において神道学、民俗学等の面からも注目を置かれているところであります。
御祭神
北殿
天照大神(あまてらすおおかみ)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
正中殿
佐太大神(さだのおおかみ)=猿田毘古大神
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
事解男命(ことさかおのみこと)
速玉之男命(はやたまのおのみこと)
南殿
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
秘説四座の神
御神徳
除災、招福、長寿の神、海陸交通守護、地鎮、縁結び、安産の神
導きの神「佐太大神」
主祭神である佐太大神の「サダ」とは伊予國の佐田岬、大隅半島の佐多岬等の地名にみられる岬の意味で島根半島一円、いわゆる『狭田国(さだのくに)』の祖神であり、出雲國における最も尊く、古い大神のうちの一柱であります。出雲の国には『大神』と呼ばれる4柱の神がおいでになり、杵築・熊野・能義、そしてこのこの佐太大神が出雲4大神とされています。
佐太大神の御誕生秘話は出國風土記に見え、当社から約10キロばかり離れた日本海に面するかか加賀の潜戸(かかのくけど 松江市島根町)と呼ばれる神埼の窟(いわや)に金の弓矢を射ってお生まれになりました。そして、その窟が光り輝いたので「加賀(かか)」と呼ばれるようになったと記されています。母神は支佐加比賣命(きさがいひめのみこと)で加賀神社に御祀されています。
佐太大神は世に云う猿田毘古大神(さるたひこおおかみ)であり、除災、招福、長寿の神で、海陸交通守護、地鎮、縁結び、安産の神として人々が日々楽しく豊な生活が送れますように「おみちびき」いただける大神であります。
(ホームページより)
本殿三社
本殿は豪壮な大社造が三殿並んでおり、真中の社を正中殿(せいちゅうでん)と云い、佐太大神(=猿田毘古大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊・事解男命・速玉之男命の五柱、向かって右の社を北殿(ほくでん)と云い、天照大神・瓊々杵尊の二柱、向かって左の社を南殿(なんでん)と云い、素盞鳴尊・秘説四座の神の五柱、本社三殿合わせて十二柱の神々が祀られています。
大社造りの三殿並立の社殿は神社建築史上特筆すべきものであり国の重要文化財に指定されています。特に向かって左の南殿は通常の大社造りの構造とは逆に作られており他に類例を見ません。
現在の本殿は文化4(1807)年松江藩が総力をあげて御造営されたものです。
この建築様式は戦国期の元亀年間にまで遡ると伝え、また三殿並立の形態は平安の末ごろには成立していたのではないかと考えられています。40年毎に式年の遷宮を執り行い、修復されてまいりました。
(ホームページより)





比較的大きめで、痛んでいますが、美保神社の狛犬さんに似ています。







