203.寶当神社(ほうとうじんじゃ)

佐賀県唐津市高島525
唐津方面神社めぐり、昨年12月に唐津神社を参拝しましたので、それ以来の唐津方面の神社めぐりです。最初は高島に鎮座する宝当神社。唐津城近くの船渡し場から船で高島へ、その名前から宝くじが当たるとのことで観光客が訪れるようになった神社です。この日もどこかのテレビ局が取材に来ていました。島おこしの一貫でもあるようで、グッズや宝くじの販売所もありました。神社はこじんまりとしていました。
創 建
天正十三年(一五八六)八月二十三日
由 緒(ホームページより抜粋)
天文二十三年(一五五四)
野崎隠岐守綱吉公は、信州の国に生誕。生まれつき才能があり、哀れみの心も厚く、道義もわえあきまえ、礼儀正しく勇気と力を持ち、当時の人は偉丈夫であると称していた。豊後の大友義鎮(おおともよししげ:後の大友宗麟)公につかえ、数度の軍功著しく、恩賞を戴く。大友義鎮公は、肥前国草の城主として草野鎮永(くさのしげなが)に迎えられる。
元亀四年(一五七四)三月二日
草野城は、龍造寺隆信率いる五四〇〇騎に取り囲まれる。野崎隠岐守綱吉と源頼久太郎久国(はらせきゅうたろうひさくに)は、やおもてに立ち奮戦する。これにより、龍造寺は勢力を失い敗走した。草野城はこれで安堵したが、草野家の老人臣は綱吉の勇力を恐れ、ねたみ、主家に綱吉の居場所が無いよう仕向ける。
九月二十一日
綱吉は、やむを得ず三人を引き連れ、夜陰に紛れ小舟を操りここ高島にたどり着く。
十二月二十九日
龍造寺は再度草野城に至り連戦の末、草野城を陥城した。(平原の合戦) 綱吉は高島に移り住みし頃である。当時世の人は、筑前国吉井の海賊、火山神九郎(かざんじんくろう)の猛悪異名に恐れおののいていた。ある日の事、吉井荊娯(よしいけいご)が神九郎の手下三十余人を率いて、高島の人家を襲った。穀物や金銭を強奪し、船に積み込み、とも綱を解き、浜辺を去ろうとしていた。これを聞きつけた綱吉は、浜辺に走り出て飛鳥の如く賊船に飛び乗り、帆柱を引き抜き横一文字に振りました。族徒は、その場になぎ倒され、各自物を取って綱吉たちに向かってきた。綱吉は車輪の如く早業で投げ飛ばし、骨折、転倒、流血負傷を負いながらも、賊徒を倒した。生き残った者はわずか五人であった。五人は、強奪した物を前にして命乞いをし、 綱吉はそれをねんごろに輸し許した。その後遠近の賊船は、綱吉の勇力を聞き二度と高島を襲うことは無かった。
天正十二年(一五八五)
綱吉の長男、吉綱(幼名 馬之助)高島において生誕。
天正十三年(一五八六)八月二十三日
綱吉はにわかに病に冒され再起することが出来ず、高島において逝去。(享年三十二歳) 島民は、綱吉の弔いを厚くし祠を建立し島の大権現として祀る。
明治三四年(一九〇一)
島の産業である製塩業が盛んになり島が潤い利益をあげた時、お礼として綱吉を祀った当神社を当島の宝と称え『寶當神社』と記した石造りの鳥居を奉納した。この頃より宝当神社(ほうとうじんじゃ)と呼ばれ親しまれてきました。
御祭神
野崎隠岐守綱吉命(のざきおきのかみつなよしのみこと)
御神徳
宝くじ必当運、金運隆昌、勝負運、出世運、開運招福






